名古屋城は豪華な金鯱で知られますが、その城郭設計も見どころの一つです。本丸を中心に二之丸、西之丸、御深井丸と曲輪が階段状に配置され、幅広い堀や高い石垣で堅固に守られています。本記事では、熱田台地の地形を活かした名古屋城の縄張り(曲輪・堀・石垣の配置)を順を追って解説します。また、石垣の修復など最新の整備状況も交えてご紹介します。
実際の地形図を参考にしながら解説するので、城郭初心者にも全体像がイメージしやすくなっています。
目次
名古屋城の縄張りとは?
「縄張り」とは城郭の設計や配置を指す言葉で、もともとは縄を張って土地の境界を決めていたことに由来します。城郭建設では本丸・二之丸・三之丸といった曲輪の配置、堀や石垣の設置計画全体を縄張りと言います。
名古屋城の縄張りは、江戸時代初期の標準的な梯郭式(ていかくしき)と呼ばれるタイプです。これは本丸を片隅または端に置き、そこから片側に二之丸・三之丸が階段状に配置される形式で、梯子(ハシゴ)を登るように曲輪が連なる様子から名付けられました。戦国時代の複雑な縄張りに比べると、直線的でシンプルな構造ですが、それでも非常に堅固な防御機能を備えています。
名古屋城の場合、本丸は熱田台地の北西端近くに位置し、北西面は断崖になっています。自然の地形を巧みに利用しており、断崖沿いはそのまま防壁となっています。一方、起伏が少ない南西側には広大な三之丸(第3曲輪)を築いて弱点を補い、その南側に城下町が広がっていました。また、台地西側の斜面には「堀川」と呼ばれる運河が掘られ、名古屋城下と熱田港を結ぶ水路として活用されました。このように地形を生かした配置によって、名古屋城の縄張りは強固な防御線を形成しています。
縄張りとは城の設計図
城の縄張りは本丸・二之丸など主要な曲輪がどのように配置されるかを決める設計図のようなものです。戦国時代には縄を張って土地を区画したことからこの名が付いたとされ、城攻めが難しい複雑な構造を作るために発展しました。名古屋城の縄張りは、そうした伝統の上に江戸初期の直線的な設計思想が取り入れられたものです。攻め込みにくさを重視しつつも、各曲輪を四角形で整然と配置することで、登場人物や守備隊に分かりやすく効率的な防御を可能にしています。
梯郭式の名古屋城縄張り
名古屋城の縄張りは梯郭式(ていかくしき)で、本丸を片隅に置き、南側から東側を中心に二之丸、西之丸が並ぶ形になります。本丸の東南に二之丸、西南に西之丸、北西と北に御深井丸が配置され、本丸の四隅と三方を曲輪が取り囲む構成です。各曲輪はいずれも堀で区切られており、複数の曲輪がブロック状に配されることで、単一の曲輪が落ちても他の曲輪への侵攻が食い止められるようになっています。
また、本丸の四隅には隅櫓(見張りや防御の櫓)が設けられ、現在も西南隅櫓と東南隅櫓が重要文化財として保存されています。本丸表門や二之丸側の搦手には二重の枡形門が置かれ、巨大な馬出(馬出し)で守る構造となっていました。これらの構造が組み合わさり、直線的でシンプルながら攻撃しにくい縄張りを実現しています。
地形を活かした防御配置
名古屋城は熱田台地の北西端、標高の高い場所に築かれており、北と西は断崖になっています。この地形を利用し、自然の守りを最大限に活かしました。断崖が天然の防壁となる反面、起伏のほとんどない南西側には三之丸を築いて防御を強化しています。三之丸は平坦な部分を護る役割を果たし、その南側には城下町が広がっていました。
さらに、熱田台地の西斜面には掘川が設けられ、名古屋城下と熱田港を結ぶ用水運河として利用されました。堀川は城下町への物資輸送路として機能し、城郭の外郭堀や水濠(水堀)と合わせて、城全体の防御と交通機能を両立させています。
名古屋城の曲輪配置と役割
名古屋城の曲輪(くるわ)は、本丸から外側へ向けて階段状に連なっています。本丸の役割は政治的・軍事拠点であり、二之丸や西之丸はそれを取り囲む中枢ゾーン、三之丸はさらに外側の南西側を守るバッファーゾーンとして機能します。以下では主要な曲輪を順に見ていきます。
本丸(Honmaru)の配置と機能
本丸は名古屋城の中心となる曲輪で、城主の御殿や天守閣が置かれていた場所です。本丸は四方を堀で囲まれ、南に大手門・西に裏門など複数の門を持ち、各門は二重の枡形門と巨大な馬出で二重・三重に守られていました。たとえば本丸の南西隅にある西南角櫓(現存重要文化財)からは、広大な西之丸と外堀を望むことができ、守備の要となっていました。
本丸の天守台には二層五重の天守閣が建てられていましたが、現在は戦災で焼失しています。天守台近くには重要文化財の東南角櫓・西南角櫓が位置し、本来は本丸をはじめ本丸北側に御深井丸(おふけまる)が接続していました。本丸西南隅櫓や東南隅櫓は修復されており、江戸時代の建築様式を今に伝えています。
二之丸と西之丸の配置と役割
二之丸は本丸の東側に、⻄之丸は本丸の南側に位置する曲輪です。二之丸には御殿に付随する庭園や櫓が配置されていました。二之丸の東側には「迎櫓」や「逐櫓」といった望楼が置かれ、庭園(名勝二之丸庭園)を備えた屋敷地でした。北東隅には鉄門(二重の枡形門)があり、枡形門外には多聞櫓や石垣で構成された外郭馬出しが設けられて、本丸から直接侵入されにくい構造になっていました。
⻄之丸は本丸の南西に接し、南西隅に未申隅櫓(みこれすみやぐら)という隅櫓が配置されていました。二之丸と⻄之丸は主に政務・居住ゾーンで、本丸の守りを固める二重三重の堀・石垣に囲まれていました。西之丸南側には枡形門(榎多門)があり、そこからさらに三之丸へと通じています。⻄之丸には御蔵構(おくらかまえ)と呼ばれる蔵群も整備され、米や武器の保管場所として内部防衛を担っていました。
御深井丸と三之丸の配置と役割
御深井丸(おふけまる)は本丸の北西から北に位置する曲輪で、本丸との間に「不明門」という閉鎖門を伴う枡形を挟んで接続していました。御深井丸北部には塩蔵(しおぐらかまえ)と呼ばれる塩の貯蔵施設が設けられ、その周囲は防御を固める土塁と多聞櫓で囲まれていました。北端には西北隅櫓や弓矢櫓などがあり、水濠に面して守りを固めています。御深井丸は本丸と⻄之丸を取り囲む役割を担い、充実した倉庫群で城内を支える重要な拠点でした。
三之丸は名古屋城の南西側、本丸外郭からさらに外側にある第3曲輪です。熱田台地の平坦部に相当し、城下町との境界を構成していました。三之丸には大手門となる茅庵門枡形などがあり、本丸附近から順々に外郭へと連絡する役割を果たします。城門や堀川を利用した水運の中継地でもあり、城郭と城下町をつなぐバッファーゾーンとして機能しました。
名古屋城の堀と防御構造
名古屋城では、本丸周辺に「空堀(からぼり)」と呼ばれる水のない堀を巡らせ、さらに外側に幅広い水濠(水堀)を設けて二重三重の防御線が築かれていました。江戸時代に作られた堀は、城を取り巻く地形を考慮して作られており、南西側から西側には広い水路(堀川)が接続しています。ここでは内堀と外堀の構造を見ていきます。
本丸を囲む空堀
本丸の直周囲にめぐらされた堀は空堀で、水を湛えない深い土塁状の堀です。本丸の四方をぐるりと取り囲む空堀は非常に幅広く、本丸側には高い土塁が築かれています。敵が本丸へ侵入しようとすると、この空堀を越えて細い土橋(どばし)を渡る必要があり、非常に難易度が高くなっています。特に北西側の空堀は他の方向よりも幅が広く取られており、空堀の下に降りた敵に上から反撃できるよう工夫されています。名古屋城の内堀はこのように空堀で構成され、本丸周辺を強固に守っています。
外堀と水堀
本丸の外側には広大な水堀(外堀)が築かれ、堀川などの水路とつながっていました。外堀は深く幅広い水濠で、城郭全体を取り囲んでいます。外堀には常に水が満たされており、攻城兵は泳いで渡ることも想定しなければなりませんでした。本丸周辺の空堀に比べ、外堀は水量が多く広いため、城内への直接侵入を一層困難にしています。特に北西側に面する外堀は土地が傾斜するエリアにあり、他の部分よりさらに広い水路が取られていました。
堀川と水路の活用
名古屋城西側を流れる堀川は、江戸時代に掘削された運河で、城下町と熱田港を結ぶ交通・物流路として使われました。堀川は外堀の水源となっており、城郭の防御機能だけでなく商業的目的にも資しました。水路の利用により、城は外堀を通じて港や川と一体化し、物資の輸送や水の供給面でも優れた利点を得ています。また、平地に水を引き入れることで、敵が堀を泳いで越えて来る対策として水中に仕掛け(なるこや菱など)を設ける工夫も行われていました。
名古屋城の石垣の特徴
名古屋城の石垣は、徳川家康の命により西国大名20家が動員されて築かれました。1610年(慶長15年)6月に基礎の根石置きが始まり、9月には本丸・二之丸・西之丸・御深井丸の石垣がほぼ完成したと伝えられています。重要な天守台の石垣は加藤清正のチームが担当したとされ、厚い基礎と巨大な石材で天守を支えました。当時の大名はどの石をどの部分に使うかを割り当てられ、石垣にはそれぞれ刻印(家紋や数字)が刻まれていました。刻印は他藩の石と混ざらないようにするための制度で、石垣に刻んだ印(刻紋)によって築城に協力した藩がわかるようになっています。
築造背景:20大名による普請
名古屋城の石垣築造は公儀普請として、大阪・熊本・大分など各地の大名20家の力を結集して行われました。当時の記録では、各大名に石場(採石場)や築造区画が細かく割り当てられ、大石一つひとつに家紋を刻むことで運搬や積み上げを明確に管理していたことがわかります。築城工事は非常にスピーディーに進み、わずか数か月で巨大な基礎石まで据え付けられました。天守台周辺の石も含め、築城当初から現在に至るまで何度も積み直しや修復が行われており、史跡としても貴重な資材の集積場となっています。
石垣の刻印と積み方
石垣の石には家紋や数字などの刻印が残っており、積み上げた大名や石場が判別できるようになっています。例えば加藤清正が担当したとされる天守台の石には「清正」の刻印も見つかっており、名古屋城石垣最大の見どころです。石積みの技法には「野面積み(のづらづみ)」と「打込接(うちこみはぎ)」などが使われ、本丸東南隅櫓では転落防止のために転落防止器具(石落とし)も備えられています。これらの石垣技法は江戸期の代表的なもので、堅牢な城壁を現在に伝えています。
石垣の修復と最新情報
名古屋城の石垣は築造以来、宝暦時代の大改修や近代以降の解体修理などで何度も積み直しが行われてきました。特に1970年の一部崩落を契機に、石垣の安定化工事が本格化し、以降も継続的に修復整備が進められています。近年では、腐朽や地盤変動の影響を受けた石垣について大規模な修復計画が進行中です。例えば本丸周辺では石を一旦引き上げて状態を調査し、再配置する工事が行われており、完了は「最新情報」でも取り上げられています。このような修復によって、名古屋城の石垣は当時の姿を再現しつつ、今後も後世に残るように保全されています。
名古屋城縄張りに見る防御工夫
名古屋城の縄張りには、枡形門や馬出し、土橋(どばし)など巧妙な防御設備がちりばめられています。重要な虎口(城門付近)には二重の枡形門が設けられ、枡形の外側には巨大な石垣を積んだ馬出し(馬出とも呼ぶ)が配置されていました。土橋は曲輪同士をつなぐ細い盛土で、敵が渡る際には本丸側から横射が可能となるよう工夫されています。これらの防御構造を組み合わせることで、単なる直線配置ながらも非常に攻めにくい縄張りが実現しています。
馬出しと枡形門の配置
本丸正門(大手門)や二之丸側の門は、いずれも枡形門で二重の門構造になっていました。枡形門とは、城門を直角に折り曲げる形で築かれた空間で、複数の門門をくぐらせる仕掛けです。名古屋城ではこの枡形門の外側に、巨大な馬出しが石垣で構築されました。たとえば本丸表二之門の外側には大手馬出しが配され、枡形内部だけでなく外側にも櫓を巡らせ敵の侵入を阻みます。二之丸東側の桜門周辺にも同様の二重門と馬出しが配置され、重要拠点を二重三重に防御しました。馬出しに入ってきた敵を枡形の狭間から本丸内の守備兵が狙うことで、攻撃を困難にしたわけです。
土橋と曲輪独立の防御
名古屋城では、曲輪同士は堀でしっかり隔てられており、両者をつなぐのは幅1〜2間程度の細い土橋だけです。この土橋は敵が渡りきるまでに狙われる位置にあり、橋を越えてきた敵には堀から飛び降りて来る守備兵が横矢(側面攻撃)をかけることが想定されています。また、土橋に入った敵が本丸内へ侵入しきる前に、逆側に脱出することも困難です。さらに名古屋城の各曲輪は独立性が高く、一つの曲輪が落ちても他への進行ルートは別の櫓門や堀で遮断されるようになっています。たとえば本丸が守備されている間に二之丸に侵入が起こっても、本丸側の橋が遮断されているため、本丸建物内には簡単には入れない構造です。このように、土橋や枡形門を駆使した配置が名古屋城縄張りの堅固さを支えています。
まとめ
名古屋城の縄張りは、梯郭式の直線的な曲輪配置と天然の地形を活かした防御によって築かれています。本丸を核にして二之丸・西之丸・御深井丸が階段状に連なり、各曲輪は幅広い空堀と大規模な水濠でブロック化されています。石垣は20大名の協力で築造され、家紋入りの大石が積み上げられました。内部には二重の枡形門や馬出し、細い土橋など当時の防御工夫が随所に見られ、簡単には突破できない構造です。
最新の研究や修復情報によって、名古屋城の縄張りはさらに詳しく解明されつつあります。訪問の際には、本丸・二之丸・西之丸に残る石垣や枡形門跡、空堀の規模などを見比べて、これらの配置がいかに巧妙な防御機能を果たしていたかを実感してみてください。
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