名古屋城の歴代城主に興味をお持ちの方も多いでしょう。徳川家康の九男・徳川義直が築城して以来、城主となった尾張徳川家の歴史は16代・260年以上におよびます。本記事では名古屋城の城主たちを年表と家系図で追い、時代ごとの変遷をわかりやすく解説します。
目次
名古屋城歴代城主の系譜と年表で振り返る
名古屋城は1610年に築城が始まり、1612年には天守が完成しました。初代城主は徳川家康の九男である徳川義直(よしなお)で、尾張藩祖として名古屋城に入りました。尾張藩は幕府御三家筆頭の家格を誇り、以降、歴代の城主はすべて尾張徳川家当主が務めました。これにより名古屋城は260年以上にわたって一族の城となり、各城主の時代に城下町名古屋は発展していきました。
尾張家の家系をたどると、名古屋城の城主は父から子への直系継承が基本でした。初代義直の長男・光友(みつとも)が二代藩主となり、三代綱誠(つななり)、四代吉通(よしみち)、五代御百太(ごろうた)、六代継友(つぐとも)と承継が続きました。それぞれの世代では当主が藩政を担うほか、城の整備や藩内改革にも力を注ぎました。次節以降では、尾張藩成立から幕末まで、歴代城主の系譜を図と一緒に追いながら詳しく見ていきます。
尾張藩成立と名古屋城築城
尾張藩は江戸幕府成立直後の1607年、徳川家康が義直に領地を与えたことから始まりました。義直は幼少ながら尾張藩主に任命され、1610年から名古屋城の築城を開始します。1612年には本丸御殿や天守が完成し、1614年には大坂冬の陣、1615年には大坂夏の陣へ出陣しました。これらの戦いを経て豊臣家が滅ぶと、尾張藩と名古屋城は徳川家の筆頭家臣団の本拠地として確立します。
築城当初、名古屋城本丸は清須城に代わる新しい拠点として設計され、加藤清正など著名な大名の協力で土台が急ピッチで組まれました。完成した天守には純金製の金鯱(しゃちほこ)が飾られ、尾張徳川家の象徴となりました。こうして名古屋城は江戸時代を通じて政治・軍事の中心となり、初代義直の築いた城が以後の歴史を動かす基盤となっていったのです。
歴代城主の一覧と継承
名古屋城の歴代城主は以下の通りです。尾張徳川家16代にわたり城主は交代しましたが、ほとんどが父から子への直系相続でした。初代義直の死後、二代となった長男・光友は在位中に援庇寺などを建立し藩政を安定させました。三代・綱誠は父光友の隠居を受けて1693年に藩主となりましたが、1699年に早世します。四代吉通は綱誠の十男としてわずか10歳で藩主となりましたが、1713年に急死。五代・御百太はわずか生後2か月で世を去りました。
六代継友(つぐとも)は吉通の弟として1716年に家督を継ぎ、享保の改革期に尾張藩主として活動しました。その後、七代・宗春(むねはる)は家督を得ると独自の経済政策を実施し、名古屋の文化振興に努めました。八代は宗勝(むねかつ)、九代宗睦(むねちか)、十代斉朝(なりとも)、十一代斉温(なりはる)と続きます。十代斉朝以降は紀伊家・一橋家から養子が入り、近親とは異なる血統でも御三家筆頭の重圧を受け継ぎました。
| 代数 | 城主名 | 在位期間 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1代 | 徳川義直 | 1610–1650年 | 尾張藩祖・徳川家康の九男 |
| 2代 | 徳川光友 | 1650–1699年 | 義直の長男。寺社整備など藩政改革 |
| 3代 | 徳川綱誠 | 1693–1699年 | 光友の長子。隠居により栄転 |
| 4代 | 徳川吉通 | 1699–1713年 | 綱誠の十男。若年で藩主に随行 |
| 5代 | 徳川御百太 | 1713年 | 吉通の子、わずか2ヶ月で早逝 |
| 6代 | 徳川継友 | 1716–1730年 | 吉通の弟。享保改革に関与 |
| 7代 | 徳川宗春 | 1730–1739年 | 継友の弟。名古屋文化を奨励 |
| 8代 | 徳川宗勝 | 1739–1762年 | 光友系譜より養子。財政引締め |
| 9代 | 徳川宗睦 | 1762–1799年 | 宗勝の長男。藩校明倫堂を設置 |
| 10代 | 徳川斉朝 | 1799–1846年 | 一橋徳川家より養子。改革を実施 |
| 11代 | 徳川斉温 | 1846–1848年 | 十一代将軍・家斉の子。江戸住まい |
| 12代 | 徳川斉荘 | 1848–1849年 | 斉温の兄。わずか1年で急死 |
| 13代 | 徳川慶臧 | 1849–1853年 | 田安家養子。若年で病死 |
| 14代 | 徳川慶勝 | 1853–1883年 | 慶臧の兄。安政の大獄など藩政改革 |
| 15代 | 徳川茂徳 | 1859–1913年 | 慶勝の弟。慶勝隠居後に藩主 |
| 16代 | 徳川義親 | 1869–1931年 | 茂徳の息子。尾張名古屋藩知事 |
尾張徳川家の家系図から見る名古屋城城主
尾張徳川家の始まりは徳川家康に遡ります。家康は1610年に義直を尾張藩祖と定め、名古屋城を拠点としました。義直没後も、尾張家当主が代々名古屋城の城主を務めました。家系図の上では、家康→義直→光友という直系に始まり、代々の藩主の多くは血縁者でつながっています。
系図をたどると、尾張家は弟・養子をとおして広がりを持ちました。たとえば八代藩主となった宗勝は、二代光友が設立した支藩・高須藩から迎えられた人物です。また、十代以降は紀州徳川家や一橋徳川家からの養子が次々と入り、外戚との親戚関係が深まりました。幕末では次代世継ぎ問題が発生し、義直の直系が途絶えた五代吉通の跡を弟継友が継いでいます。
明治維新後も尾張徳川家の系譜は門閥として残り、十四代慶勝が名古屋藩知事になるなど、家系図上での位置づけは変われど名古屋との縁は続きます。尾張徳川の系図には家康から続く血統や養子の流れが明示されており、名古屋城城主の歴史は系図と密接に結びついているのです。
徳川家康から初代義直へ
江戸幕府を開いた徳川家康は、傘下の権力を安定させるため、子に御三家の藩主を命じました。尾張藩はその筆頭であり、家康の九男・義直が藩主に選ばれました。尾張徳川家の家系図上では、家康→義直の親子関係から物語が始まり、義直は生後数年で尾張国領主となっています。
義直は菩提寺の建設や藩校の設立を通じて藩政の骨格を築きました。当時、家康は幕府の要職に家族を起用しており、尾張家は御三家として将軍家の後継問題に重大な関与がありました。家系図の枝葉には、姻戚や子孫の結婚による交友関係も確認でき、尾張徳川家の影響力の大きさをうかがわせます。
尾張徳川家の系図: 主な藩主の連続
尾張徳川家では、初代義直の長男がそのまま二代藩主・徳川光友となるなど、父から子への継承が続きました。系図に登場する主な藩主は、義直、光友、綱誠、吉通、五代御百太(5代は数か月で急逝)、六代継友と連なります。これらはすべて義直の子孫です。
七代宗春は継友の弟で系図中でも同族ですが、以降の藩主にはやや複雑な血筋も見られます。享保中期に宗春没後は、五代の家臣の子孫である宗勝が養子に入ります。さらに宗睦、斉朝(なりとも)、斉温(なりはる)、斉荘(なりたか)といった養子世代が続きました。こうした流れは家系図上で明確にわかり、尾張家当主の血筋とともに養子などのつながりも城主継承の重要な一部となっています。
幕末・明治の家系分岐
幕末期になると家系図が分岐点を迎え、徳川本家から遠い血縁や養子が重用されました。13代藩主・慶臨(よしつぐ)は有名旗本の子で、14代慶勝は家系図において兄という位置づけです。慶勝は藩主になる前に隠居して名前を慶勝に改め、15代・茂徳、16代・義親へと続きました。
義直の直系が断絶した後も、尾張徳川家の門閥は存続し、慶勝が名古屋で知事を務めたように幕末から明治にかけての貴族階級として存在感を保ちました。尾張徳川家の家系図が現在の研究対象となり、系譜には幕末の複雑な継承状況が克明に記録されています。
時代別でみる名古屋城歴代城主の年表
名古屋城と尾張藩の歴代城主の動きを年表で見ると、時代背景と城主の役割が鮮明になります。たとえば江戸時代初期には城の築城や大坂の陣があり、幕末には内外の動乱や藩政改革が相次ぎました。それぞれの時代区分で主要な出来事と城主を整理してみましょう。
江戸時代初期: 義直の時代
1610年代~1650年代は尾張藩成立・整備の時代です。1610年から義直による名古屋城の築城が進み、1614年の大坂冬の陣では義直が出陣するなど、父家康との連携が色濃い時代でした。義直は名古屋城に入城すると本丸御殿など城内設備を充実させ、脱藩禁止や藩士統制の運用を定めて藩政の基礎を固めました。
義直没後、1650年に二代光友が善政を継承します。この時期は江戸幕府の基盤が安定し、光友は財政改革や治安維持に当たり、藩の統治を強化しました。城下町では商業が活発化し、城郭も維持管理されて尾張藩の礎が築かれていきます。
享保時代: 宗春らの改革
18世紀前半は享保の改革期にあたり、七代藩主・宗春が活躍します。宗春は1716年に兄継友より家督を譲られ、享保という時代名称にも見られるように幕府自体が財政難対策を進めた時期でした。宗春は幕府の倹約令を許さず、芸能や娯楽、商業振興策を積極的に導入して名古屋城下町を活性化させ、人々から「名古屋に元気をもたらした」と称賛されました。
宗春没後は兄光友の支藩高須(美濃高須藩)生まれの宗勝が八代藩主となり、質素倹約で宗春による累積赤字を返済しました。九代宗睦は宗勝の子で約40年の長期治世を行い、藩校明倫堂を開設するなど教育にも力を入れました。これらの城主たちは文化事業の支援や城郭修復を実施し、江戸中期の尾張藩政を安定させています。
幕末・維新期: 慶勝から義親まで
幕末(19世紀半ば)になると、尾張藩主にも変動が訪れます。十三代藩主・慶臨は田安徳川家からの養子でしたが早世し、その弟にあたる十四代・慶勝が1835年に藩主となります。慶勝は幕末の尊王攘夷派として知られ、1867年の大政奉還に深く関与しました。尾張藩兵も京都や大坂で幕軍として活動し、当主は朝廷や旧幕閣との交渉役も担いました。
その後、慶勝は隠居して弟の茂徳に藩主を譲りましたが、文久3年(1863年)には慶勝が再び実権を握りました。明治維新直前には十五代となった茂徳と、最終的な世継ぎとなった義親(19代当主としての系図上の番号)も藩主を務めました。義親は維新後に名古屋藩主として版籍奉還に際し徳川宗家への返還手続きを進め、名古屋城は1871年に廃城となりました。
名古屋城の歴代城主ごとの特徴と功績
各城主の治世にはそれぞれ特徴があります。初代・義直(1601~1650)は名古屋城の築城と城下整備を成し遂げ、学問・武芸を奨励して藩の礎を築きました。七代・宗春(1696~1764)は町衆とともに経済文化を活性化し「芸どころ名古屋」の基盤を作る一方、幕府への忠誠には慎重で独自路線を貫いたことで知られます。幕末の岡・十四代慶勝(1824~1883)は改革派として尾張藩兵を率い、大政奉還に寄与するなど国家的大事件に関与しました。最後の藩主となった茂徳(1846~1913)や義親(1858~1893)は、廃藩置県を迎えて名古屋城の管理者となり、明治政府のもとで新たな役割を果たしました。
これら歴代城主の家系と治世を系図・年表で俯瞰すると、尾張藩政の大枠が見えてきます。各世代が築城、財政改革、文化振興など城下町や藩の発展に貢献しており、名古屋城の姿もその時々で変遷しました。たとえば秀吉の時代から続く城郭や庭園の名残は城主の趣味や政策に左右され、江戸期の大修理では城主が費用を負担することもあったのです。
まとめ
名古屋城の歴代城主を系図と年表でまとめると、尾張徳川家の長大な歴史がよくわかります。初代義直による築城から、宗春による享保文化の隆盛、幕末の慶勝による改革まで、各城主はそれぞれ艱難辛苦の時代を生き抜いて藩政を維持しました。現在の名古屋城は資料館や庭園として整備され、城主たちの功績を伝える資料も多く残されています。史跡や博物館で歴代城主の足跡をたどれば、尾張藩の歴史により深く触れることができるでしょう。
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